新編スタート:20日で仕上げる!

正解は、「推古天皇」。

しかし、「最初の女性天皇」と言うと、「神功皇后」と迷う。

【まとめ】

☞592年、崇峻天皇は暗殺された。暗殺したのは蘇我馬子。実行犯は東漢駒(祖先は阿知使主)。

☞推古天皇即位からが「飛鳥時代」。(ただし、古墳がなくなったわけではない。それには大化改新時の「薄葬令」まで待つ。)

☞大正時代までは、女性天皇に「神功皇后」を加えていた。また飯豊女王(いいとよのひめみこ)を22代清寧天皇の後に数える文献もある。

画像はwikipediaより。江戸時代中期に活躍した土佐光芳の画。ちなみに、土佐派で知っておくべきは「土佐光信」、「土佐光起」、「住吉如慶・具慶親子」の3組4人。

土佐光信」は室町時代、土佐派中興の祖で代表作は『清水寺縁起』。

江戸元禄時代の「土佐光起」は江戸元禄時代の人で、朝廷絵師に復帰した時の人。息子の光成とともに書いた『秋郊鳴鶉図』(しゅうこうめいじゅんず)※「鶉」=「うずら」)が代表作。

住吉如慶・具慶」親子は同じく江戸元禄時代に活躍した人で土佐派の門人。朝廷絵師の土佐光起とは異なり、江戸へ出て御用絵師となりました。具慶の書いた『洛中洛外図巻』が代表作と言えるでしょう。

『崇峻天皇の死』

まず、「崇峻天皇の死」って書いていますが、「そんな重大なこと、さらっと行かないでください・・・」というのが本音です。

なんせ、崇峻天皇は歴代天皇の中で唯一、公に「暗殺」された人物なのです。

♨そういえば、「暗殺未遂」なら他にもいますね。一番有名なのは昭和天皇でしょうか?。

♨また、「明治天皇」の前の天皇、似たような名前の天皇が多くて、なかなか名前を覚えられないのですが「孝明天皇」は岩倉具視に暗殺されたなんていう話のあるのですが、これはスルーして良いのかどうか・・・。たしかに、死ぬにしてはあまりにタイミングが良いのですが・・・。

♨「暗殺説」で良いのなら「文徳天皇」も暗殺説がありますね。

崇峻天皇 vs 東漢駒!

でもって、誰に暗殺されたのか、と言いますと、

蘇我馬子。」

・・・と答えれば、「ほぼ」正解でしょう。

「ほぼ」としたのはどうしてかと言うと、厳密に言うと、

蘇我馬子に指令を受けた“東漢駒”が実行犯

だからです。

難読語キターーーー!!

さて、「東漢」と書いてなんと読むでしょう?

正解は、「やまとのあや」です。

なんでそう読めるのでしょう?現代の感覚では全く理解できません。

ただでさえ漢字の読み方は複数通りあって大変だというのに、古代はさらに輪をかけて難読語が多いので、これだから日本史は大変だーっと思います。【日本史のダメなところは「漢字地獄」!!

難読語が出たついでに、「難読渡来人」で問題を出しましょう。

Q.次の渡来人の名前を読みなさい。
(1)弓月君
(2)阿知使主
(3)西文氏
(4)西漢氏

全部わかったでしょうか??

正解は、

A.
(1)ゆづきのきみ
(2)あちのおみ
(3)かわちのふみうじ
(4)かわちのあやうじ

です。

どういうわけか、こういうことが試験頻出だったりするので、以下、解説を加えます。

(1)弓月君

「ゆづきのきみ」は「秦」氏の祖と言われています。

そして、「秦」氏と言えば、聖徳太子時代の広隆寺創建に深く関わった秦河勝が知られています。

♨でも、「広隆寺」といえば、やっぱり「弥勒菩薩半跏思惟像の指が折られた事件」の方がインパクト強いかな。

広隆寺のある地域は「太秦」です。

これ、京都人ならみんな読めるのですが、読めるでしょうか?

これで「うずまさ」と読みます。「東映うずまさ映画村」で知っている人もいるかも知れませんね。

さて、気づいた人もいるかも知れませんが、「秦氏」のいた地域だから、「太秦」と地名に「秦」が入っています。

でも、それだとしても「太秦」と書いて、なんで「うずまさ」と読ませるのかわかりません。

しかし、どうやら「うずまさ」という地名は「絹をうず高く積んだ」というところから来ているそうです。

うずたかく積んだ、秦氏(とその家来たち)。

その伝承からも察することができるように、秦氏は「養蚕・機織り技術」を伝えました。

(2)阿知使主

続いては、「あちのおみ」です。

これも読めません。

この「阿知使主」さんですが、「東漢」氏の祖と言われています。

「東漢」と言えば、そう、蘇我馬子の命を受けて崇峻天皇を殺害した「東漢駒」ですね。

なんで苗字に「漢」が入っているかというと、どうも、漢王朝と関係があるようです。

♨一方、前述の「秦氏」は始皇帝で有名な「秦」と関係があるとされています。始皇帝といえば、「キングダム」ですっかりおなじみでしょうか。

阿知使主は後漢の霊帝の曾孫で,後漢の滅亡(※220年。三国志の時代。)に際して朝鮮の帯方に移住し、さらに七姓の民とともに日本に渡ったとされています。

特長は文筆に秀でていたとのことで、史部(ふひとべ)を管理したとされておりますが、東漢氏は軍事に秀でていた、とも言われています。

軍事に秀でていたからこそ、暗殺実行犯に選ばれた、と考えると納得がいきますね。

阿知使主さんも、東漢駒さんも「文武両道」だったということをイメージしてください。

【頭の中のイメージ】
「秦」←→太「秦」←→うずまさ←→はたおり←→弓月君
「漢」←→東「漢」←→東漢駒←→軍事・文筆←→阿知使主

わにしゅみ はたおり あっちは東、ゴロ合わせは石黒本を!

(3)西文氏

これはもうお手上げです。

知らないと絶対に読めないと思いますが、これで「かわちのふみうじ」と読みます。そして、この祖先が「王仁」と書いて「わに」さんで、日本に「論語」や「漢字」を伝えたと言われています。

♨孔子が生きていたのは春秋時代。春秋、戦国、秦、漢(前漢ー新ー後漢)、三国時代、晋、五胡十六国時代と続くわけですが、日本に伝わる800年以上前に「論語」ができたと考えると、中国の歴史の長さには感心します。

さて、話は戻って、弓月君にしても、阿知使主にしても、王仁にしても、 教科書の記載からは技術者的な印象を受けるのですが、おそらくは「政治的亡命者」でしょう。1人で来たような印象も受けるのですが、家来を引き連れてやってきました

みな4世紀~5世紀に来日したと考えられていて、「応神天皇期」としっかり書かれている教科書もあります。

4世紀、5世紀がどんな時代であったかというと、日本は「空白の四世紀」と言われた「朝鮮出兵」時期と「倭の五王」の5世紀と言われた時期です。

中国は西晋が316年に滅んで統一王朝は現れず、五胡十六国時代などと呼ばれる時代があった後、439年に北魏が中国北部を支配、南部は宋(その後、→斉→梁→陳)が支配した「南北朝時代」と呼ばれた時代です。

つまり、統一王朝が生まれなかった時代ですが、それだけに、581年の隋王朝誕生は東アジア全体にとって重要な出来事だったことでしょう。

さて、「空白の四世紀」と言うのは、「史料がないから」という理由で「空白」と呼ばれていますが、実際は日本が朝鮮半島に侵略していたとされる時期です。

高句麗の好太王と戦ったのもこの時期ですね。

初めて騎馬民族に遭遇した大和朝廷ですが、以後、古墳に馬具が埋葬されるなどの変化が生じます。古墳の埋葬品は頻出事項ですので、是非チェックを。

「倭の五王」の1人目は第16代仁徳天皇とも、15代応神天皇とも言われています。つまり、このくらいの時期に、先ほどの渡来人が来日したということです。

ちなみに「応神天皇」の母が、「神功皇后(じんぐうこうごう)」です。「神功皇后」と言えば、戦前の教育を受けた人なら誰でも知っている「三韓征伐」が有名です。これは現在の教科書には載っていません。

♨神功皇后は戦前の教科書に載っていたので誰もが知っている傑人ですが、戦後は一転して(あったかどうかわからないので)「なかった」ことにされてしまいました。また、大正時代までは天皇に数えられていたため、この頁の問題である「最初の女性天皇は?」という問題は実はちょっと難しいと思います。

【簡略年表】倭の五王の時代

369 百済王、七支刀を倭王へ贈り高句麗との戦に備える
404倭、高句麗に敗れ後退(好太王碑文
413倭王、東晋に遣使(「晋書」)
421421年、438年、443年、462年、宋に遣使。安東大将軍に。
478「宋書」倭国伝…武が上表文を提出。以後、中国の冊封から離脱。大王権威の確立。

♨高句麗・好太王との戦いではじめて「騎馬隊」と戦って以後、古墳の埋葬品にも馬具が入るなどの変化が起きる。

脱線して深みにハマりそうなので、このへんで。要はこういった時代に、彼ら渡来人が来日したということです。

♨ついでに、須恵器も同時代。

写真はwikipediaより。兵庫県神戸市より出土。青灰色で硬い。兵庫県立考古学博物館。

以下、「イメージ」。

大陸朝鮮半島日本
4世紀316年、西晋滅亡。以後、統一王朝を目指して群雄割拠。

戦乱を逃れて移住する人々がいた(4世紀~5世紀にかけて弓月君、阿知使主、王仁らが移住)
391年、好太王が高句麗王に即位。朝鮮半島に軍事進出。
百済より高句麗討伐の依頼。
5世紀439年、北魏が中国北部を統一。
(北魏は隋、唐王朝の源流)

南北朝時代
414年、好太王の息子、長寿王が好太王碑を立てる。404年、好太王とも一戦交える。
「倭の五王」の時代。最初は東晋に遣いを送るが、のちに南朝に遣いを送る。
6世紀581年、隋が中国統一。513年、516年、五経博士、日本に渡る。513年、516年、五経博士来日(継体天皇時代)。
592年、崇峻天皇暗殺。(東漢駒が下手人。)
593年、推古天皇即位。蘇我馬子、厩戸王らが活躍。

追記)五経博士来日は「五経」といっても「6世紀」。513年、516年、継体天皇の時代なので注意を。東漢駒がいたのは6世紀であるが、彼の祖先たちが来日したのは4世紀~5世紀であって、五経博士とは無関係。混乱しないように。

(4)西漢氏

最後に、「かわちのあやうじ」。

東漢氏が「やまとのあやうじ」、西文氏が「かわちのふみうじ」ということは、「西」=「かわち(大阪)」、「漢」=「あや」なのでしょうか!でもって、「東」=「やまと(奈良)」ではないでしょうか!!

東漢駒が蘇我馬子の命令を聞いていたことからもわかるように、東漢氏は大和に住む蘇我氏と結びついた。一方、西漢氏は河内に住む物部氏と結びつきました。

当時の世界というものは小さく、大阪奈良の県境などを境に「東西」が分けられていた、と考えてみてはどうでしょうか。

コチラの頁も是非ご覧を。
蘇我=東漢氏、物部=西漢氏と結びつく:古代史講義戦乱篇コチラ

ちなみに、西漢氏の配下から「阿刀氏」という姓を受けた人々はいました。この家系から「玄昉」、「空海」が輩出されているのです。(!)

♨そう考えると空海は生まれた頃から日本語と中国語のバイリンガルだったんじゃないか、って思ったり。

第2R、馬子vs駒!

さて、本題に戻りまして、、崇峻天皇を暗殺した東漢駒ですが、この事件には続きがあります。

なんと、駒が蘇我馬子に殺されたのです!!

厳密に言いますと、崇峻天皇暗殺の際に、蘇我馬子の娘(崇峻天皇の妻の1人)に駒が手を出して、馬子の逆鱗に触れた、と伝承されているのですが、これ、口封じに殺されたんじゃないのか?と思ったり・・・。

そんなことを考え出すとドツボにはまるので、このあたりにしておきたいと思います。

ところで、なんで崇峻天皇は殺されたんだっけ?

ちなみに、崇峻天皇はなぜ殺されたのかと言いますと、「馬子の権力を嫌ったから」というのが一般的な見方のようです。

しかし、近年の研究によれば、崇峻天皇が殺されたあとに群臣たちに全く動揺が見られていないことから、「崇峻天皇殺害は群臣たちに支持されていた」ものであろう、と推測されています。

なんとなく、「蘇我馬子=悪人」というイメージがあるかと思いますが、まずこの根本を改める必要があるのかと思いますね。

♨崇峻天皇、当時39歳、即位して5年目。「社長でありながら、会長もいる」みたいな状態から抜け出したかった、と考えれば良いか。ただ、天皇を暗殺した蘇我馬子がヒーローであっては何かと都合が悪いのでしょう。

蘇我馬子にとって、崇峻天皇は甥ですが、馬子にとって姪っ子にあたる推古天皇を襲撃した憎き「穴穂部皇子」の弟でもあり、崇峻天皇自身も三輪逆(※後述)殺害に関与していた可能性があり、殺されてもしょーがない、と言う見方もできましょう。

崇峻天皇の兄、「穴穂部皇子」は割とキーパーソンです。

♨【人物整理】

蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇(第29代天皇)に嫁がせました。

堅塩媛(きたしひめ)からは推古天皇(第33代天皇)、用明天皇(第31代天皇)が生まれ、

小姉君(おあねのきみ)から穴穂部皇子(殺害)、崇峻天皇(第32代天皇)、穴穂部間人皇女(聖徳太子母)が生まれました。

推古天皇を襲撃したのが、穴穂部皇子。

崇峻天皇を殺害したのが、蘇我馬子。

なんとなく、
堅塩媛・蘇我馬子・推古天皇 vs 小姉君・穴穂部皇子・崇峻天皇

という構図が見て取れるのですが、堅塩媛と小姉君、2人は仲良かったのでしょうか・・・??

いずれにしても、崇峻天皇は殺害されました。

推古天皇からが「飛鳥時代」。

そして593年、推古天皇が即位しました。ここからが「飛鳥時代」です。

♨ということは、592年までが「古墳時代」。「古墳」と「飛鳥」は対比するものではないのですが、そういうものとして覚えるしかないです。それで言うと、「縄文」「弥生」は土器の種類で、「白鳳」は文化の時代。「奈良」「平安」「鎌倉」「室町」「江戸」と地名、建物名がつくの時代が主流のようにも見えますが、「明治」に入って「元号」に。今後、明治以降が「東京時代」とでも呼ばれるようになる日は来るのでしょうか?

「古墳時代」という呼び名が終わったと考えると、古墳そのものも造られなくなったようなイメージもあるのですが、593年以降も古墳は造られています。蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳なんかもそうですね。

むしろ「古墳」消滅に一役買った法案は大化改新時に出された「薄葬令(はくそうれい:646年)」でしょう。これにより墓は簡素化されることが規定され、一部を除いて古墳は掃滅したと考えられております。

例外的にそれよりも後にできた高松塚古墳、キトラ古墳などは「終末期古墳」としてさらに区別されております。

『最初の女性天皇』

続いて「最初の女性天皇」という文言について、やっぱりどうしても書きたい。

まずは、歴代女帝は「8人」しかいないので、覚えちゃいましょう。

歴代の女帝

①推古天皇
②皇極天皇(斉明天皇)
③持統天皇
④元明天皇
⑤元正天皇
⑥孝謙天皇(称徳天皇)
⑦明正天皇
⑧後桜町天皇

⑧の後桜町天皇は覚えなくて良いです。⑦明正天皇は江戸時代の将軍家と宮家をつないだ人物で、「紫衣事件」の時に出てきます。

しかし、①~⑥はしっかりと順番まで覚えましょう。

【オススメ→歴史街道:2019年6月号の天皇の日本史

以下、①~⑥の女性天皇のイメージをダイジェストでお送りします。

①推古天皇【33代】

イメージ:「ちょっと前までは聖徳太子になんでもかんでもさせていた的な役回りだった人、でも、実際は欽明天皇の血を引くキレッキレッの実力者。」

推古天皇時代の略年表:コチラも

「古代史講義」を読んだ後に書いたコチラも是非

②皇極天皇(斉明天皇)【35代、37代】

イメージ:「神功皇后とちょっとかぶる、ってホントか?白村江に戦いに行こうとしたのは確かだけど、当時、皇極は67歳だぞ!。(神功皇后は出征時臨月だろ?おまけに皇極天皇は出征前に死んじゃったぞ!似てないんじゃないか??)あと、乙巳の変でビックリしてして隠れてしまった人、弟(孝徳天皇)に振り回された人」

皇極天皇時代の略年表:コチラも

斉明天皇時代の略年表:コチラも

※ともに重祚したとはいえ、孝謙天皇との混同に注意。

③持統天皇【41代】

イメージ:「百人一首第2番、“ころもほすてふあまのかぐやま”の人。天智の娘、天武の嫁、と言う超優良血統。 当時は則天武后など、女帝ブームであったことが出口次治朗さんの“世界史の10人”で紹介された。そのブームに乗っかった人。自分の息子を天皇にしようといろいろ策を行ったけど、結局、息子は死んじゃった人。うちで使っている柔軟剤は「さらさ」だけど、彼女もさらさ姫と呼ばれていた、(けど柔軟剤ではない)など。」

持統天皇時代の略年表:コチラも

④元明天皇【43代】

イメージ:「美人親子の母の方。平城京遷都。和同開珎と何気に古代史におけるキーパーソン。」

元明天皇時代の略年表:コチラも

⑤元正天皇【44代】

イメージ:「美人親子の娘の方。氷高皇女という名前からアナ雪のエルサをイメージできる人。その身分、責任の高さから独身という点も一緒。」

続編もエルサに恋人が現れないのか思わず調べてしまいました。コチラも。

⑥孝謙天皇(称徳天皇)【46代、48代】

イメージ:「甘やかされて育ったワガママ娘。と思いきや、墾田永年私財法をひっくり返すほどの辣腕。怒らせると超恐いので北斗の拳に出てくるような悪行を重ねる王臣家たちも黙っていうことを聞いた、という人。マッサージの上手な道鏡を中継ぎ天皇にしようとしたけど、周囲は中継ぎなんて思っちゃくれないし大反対されて、すったもんだ起こした人。和気清麻呂に穢麻呂を改名する等、良く言えば「おそろしい言霊使い」、悪く言えば「こども?」。死後、聖武系は駆逐、奈良時代終焉。」

孝謙天皇、称徳天皇時代の略年表:コチラも

本当に「最初か?」

しかし、冒頭でも触れたように、大正時代までは神功皇后が天皇に数えられていました!

さらには、飯豊女王(いいとよのひめみこ)という人が第22代清寧天皇死後に10ヶ月間執政を行ったとして、天皇に数えられることもあるようです。

「卑弥呼」を天皇と勘違いする人もいるでしょうが、彼女は「(どこかわからない)邪馬台国の女王」であり、天皇ではありません。

よって、実は「最初の女性天皇は?」と言われると、大正生まれの人は「神功皇后」と答えるかもしれませんし、すごーく歴史に詳しい人は「飯豊天皇」と答えるかもしれませんし、結構、難しい問いだな、と思いました。

時代的には、「卑弥呼」→「神功皇后」→「飯豊女王」→「推古天皇」です。

あやうし、推古天皇!

そんな、初代女性天皇推古天皇にも危険がありました。ちょっと触れた「穴穂部皇子」による襲撃事件です。

三輪逆を知っているか

三輪逆と書いて、「みわ の さかう」と読みます。三輪という苗字が付くくらいなので三輪山とも何か関係があるのでしょうか?

それはともかく、この人は、

①敏達天皇(第30代)の寵臣
②推古天皇(敏達天皇の妻)を穴穂部皇子から守った
③物部守屋&穴穂部皇子(&崇峻天皇も?)に殺され、蘇我物部戦争の端緒を開いた

人として、「高校日本史では習わないけど、割と重要な役割を果たした」とイメージしておいて下さい。

①敏達天皇の寵臣

まず、敏達天皇と言う人は、父・欽明天皇の跡を継いだ第30代天皇です。推古天皇の夫でもあります。(推古とは異母兄弟)

この敏達天皇は、 「灼然(いやちこ)なれば、仏法を断(や)めよ」 と言ったくらい、廃仏派。

じゃあ、なんで廃仏派の敏達天皇の寵臣である三輪逆を、同じく廃仏派の物部氏が殺したのか?ということになるのですが、

近年の研究からは、そもそも「物部氏」=「廃仏派」と短絡的に考えるのは間違い、と言うことが指摘されております。

それなら崇仏論争からの蘇我物部戦争はどうしてだ、と言うことになりますが、この戦争は崇仏論争の結果として戦争になったのではなく、単に政権争い、と考え直すべき、とハッキリ言われております。

古代史講義戦乱篇:コチラも

♨后の推古天皇が仏教を認めているように(実際は仏教、日本古来の神両方を敬え、と言っているが)、妻の実家の力が強いということもイメージしておきましょうか。ちょっと昔みたいに嫁いだら嫁ぎ先に従う、ということはありません。母方の実家が強いのです。

② 推古天皇(敏達天皇の妻)を穴穂部皇子から守った

順を追って説明すると、

【585年、まず、敏達天皇が死去。】

【用明天皇(蘇我馬子にとって甥)が即位するも、穴穂部皇子(崇峻天皇の兄である)はずっと皇位簒奪を狙っていた】

♨【人物整理(再掲)】

蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇(第29代天皇)に嫁がせた。

堅塩媛(きたしひめ)からは推古天皇(第33代天皇)、用明天皇(第31代天皇)が生まれ、

小姉君(おあねのきみ)から穴穂部皇子(殺害)、崇峻天皇(第32代天皇)、穴穂部間人皇女(聖徳太子母)が生まれた。

【586年、穴穂部皇子は推古天皇(当時、炊屋姫)をレイプしようとして部屋に押し入ろうとする。これを三輪逆が止めたところ、逆恨みされる

三輪逆、穴穂部皇子の指示で物部守屋により殺害される。】
蘇我馬子「天下の乱は遠からず来るであろう」(こんなことしたら国が乱れるだろうに・・・)
物部守屋「汝のような小臣の知る事にあらず」(お前みたいな低い身分のものが知ったことか!)

③物部守屋&穴穂部皇子(&崇峻天皇も?)に殺され、蘇我物部戦争の端緒を開いた

そういうわけで三輪逆は殺されてしまったのですが、つづく用明天皇死後(587年)の会議で物部守屋は孤立、「蘇我物部戦争」となったのです。

推古天皇を襲撃した人物の手下の味方はおらず、結果は味方を多くつけた蘇我馬子の圧勝でした。

もっとも、物部氏のような軍人は天皇家と結婚することができないきまりがあり、蘇我稲目が次々に娘を天皇に嫁がせることで、いつの間にか、力関係が逆転していた、というところです。

蘇我物部戦争:古代史講義戦乱篇

ちなみに穴穂部皇子は蘇我物部戦争のちょっと前に馬子らによって殺されました。

というわけで、この問題はおしまい。