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[122] 天皇が幼少または女性の場合に、政治を行う役職は?

答)摂政

『幼少または女性』

まず、この言葉がひっかかりますね。

なんで、この問題がここの項にあるのかと言うと、おそらく聖徳太子が推古天皇の「摂政」をつとめたからでしょうが、「幼少または女性」と書かれているのを見て、「聖徳太子が政治に疎い推古天皇を助けたんだろうなぁ~」って、思った方、

甘いです。

推古天皇は[121]で紹介したように、なんでもかんでも聖徳太子に頼みっぱなしのリーダーではなく、蘇我馬子に頼りっぱなしのリーダーでもありません(【蘇我馬子に先祖の土地をゴネられたけど、却下した。コチラも。】)

欽明天皇の子として生を受け、敏達天皇の后としての役目も務めあげ、穴穂部皇子に襲撃されかけるなどの苦難もあったけど、それも乗り越え、その後も政治の中心に居続けた「力のある女帝」であり、これほど適任者はいないくらいの適任者です。

つまり、「幼少または女性」、と言うように「幼少」と「女性」を並列で扱うのは、推古天皇に失礼であろうというのが、近年の考えであります。

歴史街道:天皇×日本史、コチラも

さらに言えば、女性天皇のうち、持統も、元明・元正も、孝謙も摂政を置いていません。(斉明は中大兄皇子を摂政に置きました)ほか、明正と後桜町は置きましたので、摂政を置いた女性天皇は8人中4人ということになります。

特に奈良時代の女帝たちは、誰一人として置いていないことは頭に入れておきましょう。

奈良時代の女帝は強かった…。

というわけで、「女性天皇→摂政」と短絡的に結び付きません。

「摂政」がそんなに大事か?

では、摂政の「あるべき定義」は何でしょうか。

「関白」との違い

摂政と関白について、「詳説日本史研究」によれば、

天皇が幼少だったり、病弱だったりする場合には、摂政が天皇にかわって政務を行い、天皇が成長すると、関白が天皇にかわって政務に関する諮問を受け、その決定に影響を及ぼした。

p103 摂関政治

とあります。

つまり、「幼少&病弱」=「摂政」で、「成人天皇の補佐」=「関白」という図式です。

しかし、これってすぐに「例外」が思い浮かびますよね。

もちろん1つは、前述の推古天皇ー聖徳太子。推古天皇は幼少でも病弱でもありません。

他にも微妙な例として応天門の変における「清和天皇ー藤原良房」が挙げられます。

一般的には「幼少の清和天皇を藤原良房が補佐」を覚えておけば良いのですが、実を言うと藤原良房が「摂政」についたのは応天門の変の時でして、この時、清和天皇は17歳という微妙な年齢です。

それでも富士山噴火やら、よくわからない火事やらで、危機意識をもっていたので、良房を信頼して任せたのでしょう。

僕自身も「幼帝を着けて天皇を意のままに操る」摂政像というのをもっていたのですが、これは院政と少し混同しておりました。

当時、太政官を中心に政治が行われており、「摂政1人には院ほどの力はない」、と考え直しております。

「内覧」という役職

もう1つ、摂政という地位がそんなに(「院ほど」という意味で)重要ではないと思う点の1つとして、「内覧」という地位があります。

何せ、藤原道長は20年くらいは「内覧」の地位にいて、「摂政」の地位についたのは最後の1年くらい。

摂関政治の最盛期といわれる藤原道長がほぼ摂政関白についていないというのは、何ででしょうか?

というと、摂政・関白と言う地位が全てではなく、やはりまだ当然ながら天皇の地位が高かったということと、摂政に付くと太政官の会議に出られないという制約があるなどのこと、さらに「内覧」で十分だった、ということなどが考えられると思います。

いずれにしても、摂政は確かに重要な役職だったのですが、「摂政は院ほどの力はない、摂政関白を重要視するなら<内覧>も重要視するべきでしょう」というのが僕個人の考えです。

古代史講義:こちらも

まとめ

天皇が幼少のときに政治の補佐を行う役職は「摂政」であるが、中世における「院」ほどの力をもっているわけではない。また女性だからといって必ず「摂政」をおいたわけではなく、推古天皇が政治に疎いから摂政に聖徳太子を置いたわけでもない。

ちなみに「摂関時代」と言うと、「摂政・関白」を想像するが、藤原道長が20年近く在位した地位は「内覧」である。