新編スタート:20日で仕上げる!

[123] 推古天皇の甥で摂政を務めたのは誰?

正解は、厩戸王(聖徳太子)

【まとめ】

推古天皇の甥は13人以上いるけど、摂政を務めたのは厩戸王(聖徳太子)。

ちなみに、聖徳太子には兄がいた。(そして、兄が父になった。)

『推古天皇の甥』

ただ、それだけではつまらないので、とりあえず、「推古天皇の甥」を検索できる範囲で検索しますと、

聖徳太子(厩戸王:うまやとおう)
蜂子皇子(はちこのおうじ)
来目皇子(くめのみこ)
当麻皇子(たいまのみこ)
田目皇子(ためのみこ)
殖栗皇子(えぐりのみこ)
茨田皇子(まんだのみこ)

と、まずいきなり7人登場。

うーん、1人しか知りません。

聖徳太子には兄がいた!

この中で、聖徳太子の同母兄弟には、来目皇子(用明天皇第4皇子)、殖栗皇子(用明天皇第5皇子)、茨田皇子(用明天皇第6皇子)が挙げられます。

聖徳太子も含めたこの4人は皇后・穴穂部間人皇女を母としています。

一方、異母兄弟には、田目皇子、当麻皇子がおります。

聖徳太子は用明天皇の第2皇子にあたり、第1皇子は田目皇子です。聖徳太子にはお兄さんがいたんですね

ただ、ちょっとビックリするのが、用明天皇の死後、この田目皇子は、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と結婚するのです・・・

母親と兄が結婚した!?

異母兄とはいえ、お兄さんが自分の母親と結婚して父になる・・・

うーん、そんなマンガチックな出来事があったとは・・・。

穴穂部間人皇女は574年に聖徳太子を産み、579年に茨田皇子を産んでいます。(6年で4人産んでいるわけですね。なかなかハイペースです。)

しかし、587年に用明天皇が死亡して未亡人となりました。

この時、太子は13歳。田目皇子の年齢は定かではありませんが、14歳以上、ということで、20歳くらいに考えておきましょう。

一方、穴穂部間人皇女の年齢は何歳くらいでしょうか?

これも想像でしかないのですが、1人目の出産が574年、死亡が621年ということは、1人目(聖徳太子)を出産したのが18歳、亡くなられたのが65歳くらい(想像)。

となると、再婚年齢はズバリ31歳!、再婚相手は20歳!と勝手に想像させて頂きました。あしからず。

ちなみに聖徳太子の死は622年なので、母親の死亡1年後に後を追うように亡くなられたのですね。

話がだいぶそれましたが、当麻皇子は第3皇子で、聖徳太子の異母弟にあたります。

「推古天皇の甥」は≧13人!

もう1人残った「甥」は蜂子皇子。

彼は父親が崇峻天皇で、wikipediaには「第3皇子」、とありました。ということは第1皇子、第2皇子もいたのでしょうか?

成人できたのかどうか、検索した範囲ではわかりませんでした。

また、「推古天皇の甥」ということは、異母兄でもあり、夫でもある「敏達天皇」の皇子でも良いのでは?、ということで考えると、

押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
難波皇子(なにわのみこ)
春日皇子(かすがのみこ )
大派皇子(おおまたのみこ)

も、「甥」にあたるのかと思います。(相変わらず聖徳太子しか知りませんが・・・)

もちろん敏達天皇と推古天皇との間の皇子、

竹田皇子(たけだのみこ)
葛城王(かずらきのみこ)

は息子ですので、「推古天皇の甥」ではありません。

というわけで、推古天皇の甥は、

居たのか居ないのかわからない崇峻天皇の第1皇子、第2皇子もカウントしてしまうと、

とりあえず13人以上!

ということがわかりました。

(これを知っていて、何か得することがあるかどうかわかりませんが。)

聖徳太子の隣にいるのは、聖徳太子の息子ではなかった!

ついでに言いますと、この有名な絵、

画像はwikipediaより。「唐本御影」(聖徳太子及び二王子像)。

そもそも、「聖徳太子ではない」説もあるのですが、現在では紆余曲折を経て「やっぱり聖徳太子」とされております。(「日本史のライブラリー」p45より)。

この、向かって右側は息子の山背大兄王ですが、左側の人物は、

左側は弟の殖栗皇子でした!いやー、意外。

でも、この第5皇子との間ってせいぜい5歳くらいしか離れていないのはずなのに、この絵を見ると親子くらいの差に思えませんか?

古代のことだし、どっちかの出生年齢が間違っているのか、やっぱり聖徳太子ではないのか、はたまたテキトーに書いたのか、

そのあたりはもうわからないのですが、深追いせずに、「古代は謎だらけ」ということにしましょう。

『摂政を務めたのは誰?』

それでもって、「摂政を務めたのは誰?」と聞かれると、そもそも聖徳太子しか知らないので聖徳太子と答えるしかないのですが、

そもそも、古代における摂政はごく限られた人だけです。

というわけで、歴代摂政は、

歴代摂政

➀聖徳太子(593-622)
②中大兄皇子(655-661)→天皇に
③草壁皇子(681-686)
④藤原良房(866-872)
⑤藤原基経(876-884)→関白に
⑥藤原忠平(930-941)
⑦略

と、そうそうたる顔ぶれ。

草壁皇子から藤原良房までの間、200年近く開いているのもポイント。

というわけで、ここまでをまとめると、

『推古天皇の甥は13人以上いるけど、そのうち摂政を務めたのは聖徳太子のみ。藤原良房以前の摂政は聖徳太子と中大兄皇子と草壁皇子の3人。

ちなみに聖徳太子は6人兄弟の2番目で、田目皇子っていうお兄さん(異母)がいた。兄は父の死後、太子のお母さんと結婚して父となった!

以上です。ちなみに、厩戸王、聖徳太子、って2種類の呼び名があるのですが、「聖徳太子」の方が一般的とはいえ、この呼び名は奈良時代あたりでつけられた名前なんですって。

(※751年の「懐風藻」がはじめの出典らしい。wikipediaより)

基本的には本名で答えるのが正解なので、「厩戸王」と答える方が良いのでしょうが、ここまで浸透している「聖徳太子」という名前で答えても良いことになっているようです。