正解は、蘇我入鹿。
この事件のことを何と言うかといいますと、
「上宮王家滅亡事件」。
【古代史講義戦乱篇】
と言います。
上宮王家滅亡事件
いつ? | 643年11月。 |
どこで? | 山背大兄王の家(斑鳩宮)。 |
誰が? | 蘇我入鹿が。 |
何を? | 山背大兄王を襲撃した。 |
どのように? | 手下100人による。山背大兄王とその一族は自害した。 |
なぜ? | 古人大兄皇子(舒明天皇第1皇子)を即位させる上で邪魔だったからという説が考えられている。 ※朝鮮半島の動乱に対していち早く(自分を中心とした)中央集権国家を確立しようと考えていたとも。 |
まず、順を追って。
推古天皇死後の動乱
まず覚えることとして、推古天皇以降の天皇。推古天皇は33代天皇である。ほか、この時代のキーパーソンとなる天皇は第36代天皇の孝徳天皇。
この2人は覚えておく必要があります。

そして、孝徳天皇を取り囲むように姉の皇極天皇が35代、37代(重祚して斉明天皇)。

じゃあ、34代は誰だ!ってことになるのですが、これは舒明天皇と言いまして、皇極天皇の夫でもあります。

これで推古天皇以後の天皇を覚えることができたと思いますが、実は舒明天皇即位をめぐって、一悶着ありました。
「田村皇子」派vs「山背大兄王」派
628年、推古天皇は後継者を決めていない状態で崩御されました。
(ちなみにこの頃、唐では李世民が626年の玄武門の変で政権掌握、中東ではムハンマドが622年の聖遷を経て630年メッカ征服。世界的大帝国の萌芽期ですね。)
田村皇子 | 山背大兄皇子 | |
出生年齢 | 593年 | 不明 |
両親 | 押坂彦人大兄皇子 (敏達天皇第1皇子) 糠手姫皇女 (敏達天皇娘) | 聖徳太子 (用明天皇皇子) 蘇我刀自古郎女 (蘇我馬子娘) |
支援者 | 蘇我蝦夷 (蘇我馬子息子) 蘇我入鹿 (蘇我馬子孫) | 境部摩理勢 (さかいべのまりせ:馬子弟) |
山背大兄皇子の方が蘇我氏の血統からは近いのでしょうが、どういうわけか、蘇我蝦夷は田村皇子を後継者に指名しました。
これには山背大兄皇子が若過ぎた、とか、山背大兄皇子の人気を恐れたとか、他の豪族とのバランスをとるためだとか、諸説あります。
これにより、蘇我家も意見が分かれていることが1つ注目すべきところですね。境部摩理勢は甥にあたる蝦夷により殺害されています。
蘇我総本家内の政権争い、という見方もできるのかも知れません。
いずれにしても舒明天皇は628年から641年まで務め上げ、亡くなられました。
グレートマザー・皇極天皇の即位
今度こそ山背大兄皇子か?と思いきや、舒明天皇の妻・皇極天皇が即位しました(642年)。
この皇極天皇、天智天皇と天武天皇の母としても知られております。
天智天皇も舒明天皇第1皇子ですが、628年生まれですので、まだこの時13歳。さすがに天皇になるには時期尚早だったのでしょう。
政治の実権は蘇我蝦夷、蘇我入鹿が握っておりました。
入鹿としてはのちのちの憂いを断つ目的があったのでしょうか?
上宮王家滅亡事件をおこすのです。(643年)
ちなみに皇極天皇は「乙巳の変(645年)」で孝徳天皇に位を譲っているので、645年までです。
山背大兄皇子が殺害された事件は、「上宮王家滅亡事件(643年)」と呼ばれ、首謀者は蘇我入鹿である。
↓殺害された山背大兄皇子↓

左は聖徳太子の弟。
推古天皇崩御後、田村皇子(のちの舒明天皇)派と山背大兄王派で、蘇我氏が分裂した。
田村皇子とその息子である古人大兄皇子を支援する蘇我入鹿は、舒明天皇の死後、山背大兄王一族を滅ぼす。(643年、上宮王家滅亡事件)
しかし、大化改新で蘇我入鹿、古人大兄皇子は中大兄皇子(のちの天智天皇:古人にとっては弟)に殺害される。