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[141] 大友皇子と大海人皇子が皇位をめぐって争った内乱は?

正解は、壬申の乱

なんだっけ、それ。
一言で言うと、天智天皇の後継者争いですな。

天智天皇が671年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子(631?~686)と、天智天皇の長子(母は伊賀の地方豪族出身)で、671年に政権に参画していた大友皇子(648~672)との間におこった大王位継承争いを発端としている。

詳説日本史研究p60
どっちが勝ったんじゃ?
東国の軍勢と大伴氏など大和の諸豪族を味方につけた大海人皇子ですな。

大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白村江の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大積やは陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。

詳説日本史研究p60
大友皇子は風采も良く、頭も良く、良かったんだけどなぁ・・・。
うーむ・・・。しかし、母親の身分的には大海人にはかなわないんだよな・・・。
本人もなれるとは思っていなかったでしょ。
しかし、これには他にも要因があってな。

唐と新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの、朝鮮半島支配をめぐって対立した。670年から戦争状態に入った

詳説日本史研究p60
「唐への服属を決めた天智天皇・大友皇子」 vs 「唐に服属しないことを決めた大海人皇子」という見方もできるんじゃな。

のち、676年に結局、新羅は唐の勢力を駆逐して半島を統一する。

詳説日本史研究p60
大海人皇子即位以降、遣唐使は30年間送られなくなるのよ。
大海人の時代に、「倭」から「日本」に、「大王」から「天皇」になる、というのも感慨深い。
ちなみに「天皇」を最初に使ったのは道教に通じていた唐の三代皇帝高宗やね。

中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の冊封を受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、自らを位置づけようとしたのである。

詳説日本史研究p61
あと、三関については覚えておいた方が良いかもね。

【大海人皇子の経路】
吉野宮→鈴鹿(三重)→不破(岐阜)→愛発関(福井)→近江大津宮(滋賀)→最終的に大友皇子が自殺したのは山崎(大阪)

鈴鹿、不破、愛発関が古代三関。

しかし、不破(関ヶ原近辺)、山崎(秀吉vs光秀の舞台)といい、戦地って共通性があるね。
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【まとめ】

★天智天皇の死後、息子の大友皇子と弟の大海人皇子の間で壬申の乱が勃発した(672年)。

★唐への服属を決めた天智天皇・大友皇子と、唐への服属を良しとしなかった大海人皇子(天武天皇)の外交方針の違いという側面もある。


★東国の兵を味方につけたことも勝因の1つである。

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