正解は、「吉備真備」、「玄昉」。
同じ船には阿倍仲麻呂もいた(ただし、帰国できず)。
※藤原宇合もいた。(遣唐副使)。
吉備真備
ただのインテリではないっ!稀代の戦略家として藤原仲麻呂を打ち破る!
出世街道まっしぐら!
717年、遣唐使として唐にわたり、20代~30代を過ごした。
帰国時は735年。聖武天皇や光明子により引き上げられた面もあるが、737年に橘諸兄政権となると、さらに昇進。
これを妬んだとされる藤原広嗣が九州で乱を起こすほど。
15年以上に及ぶ 怨敵、藤原仲麻呂
吉備真備はどうなった?
九州に左遷させられたうえ、もう1度遣唐使として唐に送られた。
ここで阿倍仲麻呂にも再会しているんだ。
阿倍仲麻呂は船が難破して帰国できなかったけど、真備は鑑真とともに、何とか日本に帰ってこれた。
そして、藤原仲麻呂の乱では、作戦参謀として藤原仲麻呂を打ち破った。
ただ単に唐の文化、政治を学んでいたわけではなく、ちゃんと軍略も学んでいたというわけだ。
吉備真備略歴
年 | 年齢 | できごと |
---|---|---|
695 | 0 | 岡山県倉敷市にて出生。 |
717 | 22 | 遣唐使として入唐。 |
735 | 40 | 帰国。 |
737 | 42 | 吉備真備政権下でさらなる出世。 |
740 | 45 | 出世を妬んだ藤原広嗣による乱。 |
749 | 54 | 孝謙天皇即位とともに藤原仲麻呂が実権。 |
750 | 55 | 九州に左遷。 |
752 | 57 | 遣唐使として再び唐へ。 |
754 | 59 | 鑑真とともに無事帰国。 |
764 | 69 | 藤原仲麻呂の乱を鎮圧。 |
766 | 71 | 右大臣就任。(左大臣は藤原永手) |
770 | 75 | 称徳天皇崩御に伴い光仁天皇擁立。 |
771 | 76 | 高齢を理由に辞職がようやく許される。 |
775 | 80 | 死去。 |

玄昉
名門、阿刀家の出身。
藤原宮子の治療を行うも、藤原仲麻呂により不遇の死。
阿刀氏の出身!
渡来人の流れを組んでいて、空海もその家系だったとか。
蘇我物部戦争時は物部方にいたとも。
藤原宮子の病気を治す!
737年にようやく治ったんだけど、701年からだから約36年間、随分長引いたね。
怨敵!藤原仲麻呂
745年、九州にとばされて、746年に死亡。
阿倍仲麻呂
阿倍比羅夫の孫。
学才を買われて遣唐使となるも、玄宗皇帝に重宝され過ぎたことと、度重なる難破により帰国できず。
大将軍・阿倍比羅夫の孫
いずれにしても、仲麻呂は比羅夫の子孫というわけだね。
玄宗皇帝に仕える
玄宗皇帝に重宝され、李白とも交流があったんだってね。すごいね。
帰国かなわず・・・
百人一首
あまのはら ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
ちなみに、中国の海の玄関口は必ず寧波(ニンポー)

井真成
2004年、彼の墓が発掘。717年の遣唐使、井真成(せいしんせい)のものであることが判明。734年、36歳で死去。
この墓の注目すべきもう1つのポイントとして、この墓碑が、日本の国号を「日本」と中国が認めていたことを示す最古の資料でもあることである。
いつも思うけど、工事の人ってスゴイよね。
俺なら気づかずにガーンってやっちゃいそうだけど。
阿倍仲麻呂の中国名は「朝衡」とも「晁衡」とも。
藤原宇合
藤原四兄弟の三男。長男(広嗣)と違い、有能説。
なんせ、724年には蝦夷を鎮圧している。武勇にも優れていたんだろうね。
717 | 若くして遣唐副使に抜擢。吉備真備、玄昉と一緒に唐へ。 |
724 | 蝦夷の反乱で東北に遠征し、活躍する。 |
729 | 長屋王の変では六衛府を率いて長屋王の邸宅を取り囲む。 |
732 | 対外防衛のために置かれた節度使として最前線の西海道へ。 |
737 | 大宰府管内から全国へ大流行した天然痘で死亡。44歳。 |
藤原広嗣の乱のあとも、次男・良継、八男・百川らが政権の中枢として活躍しているしね。(ちなみに百川の息子が徳政争論の緒嗣。)