新編スタート:20日で仕上げる!

[199] 橘諸兄政権で重用されたのは誰?

正解は、「吉備真備」、「玄昉」。

 
もしかすると、この中に阿倍仲麻呂も入っていたかも知れない。
 
あれ、歴史に if は ないんじゃなかったっけ?
吉備真備、玄昉は717年、遣唐使として唐に派遣。

同じ船には阿倍仲麻呂もいた(ただし、帰国できず)。

※藤原宇合もいた。(遣唐副使)。

吉備真備

 
【吉備真備】(695~775)

ただのインテリではないっ!稀代の戦略家として藤原仲麻呂を打ち破る!

出世街道まっしぐら!

 
下道真備とも言うんだね。吉備を名乗るからにはやっぱり岡山県人?
 
そうだね。特に優秀だったんでしょう。

717年、遣唐使として唐にわたり、20代~30代を過ごした。

帰国時は735年。聖武天皇や光明子により引き上げられた面もあるが、737年に橘諸兄政権となると、さらに昇進。

これを妬んだとされる藤原広嗣が九州で乱を起こすほど。

15年以上に及ぶ 怨敵、藤原仲麻呂

 
749年、孝謙天皇即位とともに、藤原仲麻呂が台頭したんだったよね。

吉備真備はどうなった?

 
まさに目の敵にされてしまった。

九州に左遷させられたうえ、もう1度遣唐使として唐に送られた。

ここで阿倍仲麻呂にも再会しているんだ。

阿倍仲麻呂は船が難破して帰国できなかったけど、真備は鑑真とともに、何とか日本に帰ってこれた。

 
しかし、仲麻呂も露骨だな。
 
その後も九州勤務が続いたが、仲麻呂と孝謙上皇の仲が悪くなった時に、呼び戻されたんだな。

そして、藤原仲麻呂の乱では、作戦参謀として藤原仲麻呂を打ち破った。

ただ単に唐の文化、政治を学んでいたわけではなく、ちゃんと軍略も学んでいたというわけだ。

 
すごいな。真備。

吉備真備略歴

年齢できごと
6950岡山県倉敷市にて出生。
71722遣唐使として入唐。
73540帰国。
73742吉備真備政権下でさらなる出世。
74045出世を妬んだ藤原広嗣による乱。
74954孝謙天皇即位とともに藤原仲麻呂が実権。
75055九州に左遷。
75257遣唐使として再び唐へ。
75459鑑真とともに無事帰国。
76469藤原仲麻呂の乱を鎮圧。
76671右大臣就任。(左大臣は藤原永手)
77075称徳天皇崩御に伴い光仁天皇擁立。
77176高齢を理由に辞職がようやく許される。
77580死去。
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玄昉

【玄昉】(~746)

名門、阿刀家の出身。
藤原宮子の治療を行うも、藤原仲麻呂により不遇の死。

阿刀氏の出身!

 
阿刀氏っていうのは、ちょっと有名だよね。

渡来人の流れを組んでいて、空海もその家系だったとか。

蘇我物部戦争時は物部方にいたとも。

 
そうだね。玄昉といい、空海といい、エリート家系だね。

藤原宮子の病気を治す!

 
聖武天皇を産んだあと、産後うつみたいになっていたんだっけ?
 
そうだね。

737年にようやく治ったんだけど、701年からだから約36年間、随分長引いたね。

 
治療内容が知りたいね。

怨敵!藤原仲麻呂

 
ところが吉備真備と一緒で、というかそれよりも早く左遷されてしまう。

745年、九州にとばされて、746年に死亡。

阿倍仲麻呂

【阿倍仲麻呂】(698~770)

阿倍比羅夫の孫。
学才を買われて遣唐使となるも、玄宗皇帝に重宝され過ぎたことと、度重なる難破により帰国できず。

大将軍・阿倍比羅夫の孫

 
阿倍比羅夫といえば、斉明天皇時代に北方遠征を行った人物だね。
 
揺れ動く東アジア情勢に対して、東北・北海道と朝鮮半島が地続きなのかどうか調べる目的もあったのではないか、と言われている。

いずれにしても、仲麻呂は比羅夫の子孫というわけだね。

玄宗皇帝に仕える

 
717年に唐に渡って、唐の科挙にも合格。

玄宗皇帝に重宝され、李白とも交流があったんだってね。すごいね。

 
遣唐使の中でも、あんまりにも優秀すぎて玄宗が手放さなかったというのもあるんだね。

帰国かなわず・・・

 
結局、帰れなかった。
 
その後も唐で失脚など無縁に働いていることがすごい。

百人一首

あまのはら ふりさけみれば 春日なる

三笠の山に 出でし月かも

 
なんで船が難破して帰って来られなかったのに、この唄だけが伝わってるの?
 
この唄は中国を出るときの送別会で詠まれたらしい。何人かは帰れたから伝わったのかな?

ちなみに、中国の海の玄関口は必ず寧波(ニンポー)

 
無事に霊が静まるといいね。

井真成

【井真成】(699~734)

 

2004年、彼の墓が発掘。717年の遣唐使、井真成(せいしんせい)のものであることが判明。734年、36歳で死去。

この墓の注目すべきもう1つのポイントとして、この墓碑が、日本の国号を「日本」と中国が認めていたことを示す最古の資料でもあることである。

 
ちょいネタですが。
 
工事中に偶然発見されたんだって。

 

いつも思うけど、工事の人ってスゴイよね。

俺なら気づかずにガーンってやっちゃいそうだけど。

 
ちなみに、この「井真成」という名前は中国名。日本名はまだ不明っぽい。

 

阿倍仲麻呂の中国名は「朝衡」とも「晁衡」とも。

藤原宇合

【藤原宇合】(694~737)

 

藤原四兄弟の三男。長男(広嗣)と違い、有能説。

 
しかし、717年の遣唐使たちは、その後も活躍した人が多いね。
 
そう。藤原宇合に関しては、息子の広嗣が「やらかした」おかげでだいぶマイナスイメージがあるかも知れないけど、前例を嫌い、現状に即した施策をしたとして評価されている。
 
長屋王に自決を迫ったのは彼じゃなかったっけ?
 
うん。それはそうなのかも知れないんだけど、長屋王の変自体が彼単独の行動ではないからね。仕事として行っただけでしょう。

 

なんせ、724年には蝦夷を鎮圧している。武勇にも優れていたんだろうね。

 
ふ~ん。
717若くして遣唐副使に抜擢。吉備真備、玄昉と一緒に唐へ。
724蝦夷の反乱で東北に遠征し、活躍する。
729長屋王の変では六衛府を率いて長屋王の邸宅を取り囲む。
732対外防衛のために置かれた節度使として最前線の西海道へ。
737大宰府管内から全国へ大流行した天然痘で死亡。44歳。
 
広嗣はたしかに長男だけど、藤原式家の代表が彼と思われてもちょっと困る。

藤原広嗣の乱のあとも、次男・良継、八男・百川らが政権の中枢として活躍しているしね。(ちなみに百川の息子が徳政争論の緒嗣。)