正解は、「藤原仲麻呂(恵美押勝)」。
何それ?2つの名前が全然違うんですけど。
「恵」と「美」をもたらし、「押」して「勝」つ、すごい人、みたいな。
発想がちょっとイタイ感じがするけど、これは結果を知っているからかな。
うん、うん。
覚えなくて良いと思う。
目次
即位した瞬間に政権を握ったの?
うーん、これは微妙じゃないかな。
まだ橘諸兄もいたし、兄の豊成もいたしね。
2人を追い落とした757年。
この年は橘諸兄が死んだ年だね。
そして、橘奈良麻呂の変。
橘奈良麻呂はともかく、これで兄の豊成も追い落として氏長者となった。
758年には孝謙天皇が淳仁天皇に譲位したわけだ。
淳仁天皇は完全に仲麻呂の傀儡。
仲麻呂はまさに絶頂期を迎える。
でも、世の中、そんなに甘くないんだな・・・。
孝謙上皇と対立した数々のポイント
①新羅遠征をめぐって
仲麻呂は新羅に遠征しようとしていたんだね。
足をつっこんで大変なことになりかねない。
759年のできごとだね。
当時、安史の乱で唐がぐちゃぐちゃになっていて影響力が低下していたからチャンスと見たのかも知れないけど、もし出兵していたらそれこそぐちゃぐちゃになっていた可能性もあるんじゃないかな。
②光明子の死
孝謙天皇と仲麻呂、2人をつなげていたのは彼女だったね。
そう。バランサーを失った、みたいな。
これが760年。
③道鏡の存在
うーん。これは日本史上、結構な問題だったと思う。
天皇にしようとしたんだっけ?
うーん。天皇にしようとしたのは確かだけど、中継ぎ天皇的な意味合いのつもりだったらしい。
もっとも当然、周囲は納得しないけど。
道鏡が孝謙天皇の病気を治して、信任を得たのが761年のできごと。
762年には有名な「小事は天皇に任せておけ、大事は私にもってこい」発言につながる。
激突!藤原仲麻呂の乱。
問題文だけ見ると、孝謙天皇と藤原仲麻呂はずっと仲良かった、と思った人は多いはず。
諸行無常、だよね。
764年、ついに戦争に。
【まとめ】
749年、孝謙天皇が天皇即位。光明子の後押しもあり、従兄弟の藤原仲麻呂が登用される。
757年、橘諸兄の死と、橘奈良麻呂の変によって、藤原仲麻呂は権力を掌握。
758年、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位。藤原仲麻呂はさらに権力を得る。
759年、新羅遠征をめぐって、仲麻呂と上皇が対立。
760年、光明子の死により、仲麻呂と上皇の間をとりもてる人間がいなくなる。
761年、孝謙天皇の病気を道鏡が治したことで、道鏡が重用される。
762年、孝謙上皇、「小事は天皇に、大事は自分に」発言。
764年、藤原仲麻呂の乱。

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