新編スタート:20日で仕上げる!

【1-2】 1808年、「フェートン号事件」と大英帝国。

1800年代前半の日英関係について、まずはこの問題から。

[724] イギリスの軍艦が長崎湾に侵入した事件は?

正解は、「フェートン号事件」。

1808年の事件です。

当時、オランダ本国はナポレオンが統治するフランス領になっていました。

そうなると、東アジアで活動しているオランダ人も「フランス人」となります

イギリスはフランスと交戦中でしたので、オランダ人も敵となりました

そんなある日、「オランダの国旗を掲げた」船が長崎港にやってきました。

当時、オランダ商館長は

オランダ
オランダ船はこの時期には来ないからねっ!

と幕府に警戒を呼びかけていましたが、警備担当者は入港させました。

船へ出迎えに行くと、

日本
オランダ人ちゃうやんけ!!

ということが判明(!)。

オランダ
(・・・だから、言ったじゃないの・・・)
彼らは、イギリス船「フェートン号」の乗組員たちでした。

フェートン号乗組員たちは、オランダ人2人を捕虜にすると、長崎奉行に食糧を要求し、食糧の提供を受けるとオランダ人を解放して帰りました。

(わかりやすく言うと、「海賊行為」です。)

長崎は天領でありながら周辺大名しか兵力を持たないという問題があり、当時の兵力は、当番だった佐賀藩110人程度でした。

よって、フェートン号の要求を飲むしかなかったのです。

1804年のレザノフ来航以降、他地域以上に湾岸防備の必要性が叫ばれていましたが、改善されずにいたツケでもあります。

その結果、長崎奉行の

松平康英は責任をとり自害

しました。

長崎奉行だけの責任ではないと思うんだけどな~

これが「フェートン号事件」です。

コチラも↓

イギリス躍進の理由は?

さて、日本人傭兵も戦った1623年のアンボイナ事件でオランダに敗れ、東南アジアから撤退したイギリスですが、

いつ、どうやって「大英帝国」と呼ばれるほど強大な国となったのでしょうか

これには「産業革命が起きたから!」「議会政治が確立したから!」「合理主義のもと科学が発達したから!」など、もっともらしい答えが用意されているのですが、

答えは1つではあるはずはなく、複合要因が絡んでいることでしょう。

そして、数ある答えの1つに、

「1694年、イングランド(中央)銀行が設立されて、軍事力等を賄う資金調達に成功したから」

という考えもあることも頭においてください。

もちろん、

国家ぐるみで海賊行為を行って他国の富を奪っていたから

も正解ですね。

是非、興味を持った方は世界史も勉強してみてください。

※中央銀行の仕組みについてはコチラの方のblogがわかりやすいです。

要は中央銀行とは国家を相手にお金を貸す民間企業。さらにその国の紙幣も刷れる

苫米地先生のこの本も、早めに読んでおいて損はないです。

戦争が起きたときに、当事国に「銀行」があることが大事

[725] 1825年に発布された、外国船の撃退を命じた法令は?

さて、その後も「イギリス船」は日本各地にたびたび出没しました。

フェートン号のような「公的」なものから、商人が乗る「私的」なものまで様々です。

「商人」って言うのは武器を持てば「海賊」だな。

1824年にはイギリス船員が鹿児島に上陸して、「現地の牛を強奪する」という事件(宝島事件)がありました。

また、同年、水戸では「イギリス人12人が勝手に上陸する」という事件(大津浜事件)も起きています。

徳川慶喜ゆかりの水戸藩は海岸線が長く、外国への脅威が常にありました

外国船に対する脅威が増す中、幕府は1825年、

外国船(中国とオランダ以外)を見たら

「無二念」、つまり「それ以外のことは考えずに」打ち払え!

という指令を出しました。

これが、

「無二念打払令」
=「異国船打払令」です。

この「無二念打払令」はのちに「モリソン号事件」などの問題を引き起こしますが、それはまた後で。

次は、ロシアとの関係を見ていきます。

→【1806年、「フヴォストフ事件」と帝政ロシア。】へ

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[724] 1808年、イギリスの軍艦が長崎湾に侵入した事件は?

「フェートン号事件」

[725] 1825年に発布された、外国船の撃退を命じた法令は

「異国船打払令」もしくは「無二念打払令」