新編スタート:20日で仕上げる!

【1-3】 1806年、「フヴォストフ事件」と帝政ロシア。

さて、当時、イギリスに次ぐ世界2位の強国といえばロシアでした。

「攘夷」の「夷」も、元々、ロシアを想定しておりました。

徳川吉宗の時代(1739年)にはロシア船が日本まで来ていますからね。

主に4章からがロシア船について。

1771年にはベニョフスキーというロシアから脱走して日本に漂着したポーランド人の手記により、

「ロシアの日本侵攻計画」(!)が知らされます・・・

1771年、「はんべんごろう」事件

実はこの「日本侵攻計画」、ベニョフスキーの「虚言」も含まれていた(!!)のですが、

仙台藩江戸詰藩医の工藤平助は、ロシア対策を考え、

1783年、「赤蝦夷風説考」
(あかえぞ ふうせつこう)

を出版しました。

これが時の権力者である田沼意次(1786年罷免)や、

のちに「海国兵談(1791)」を著す林子平に影響を与えます。

ベニョフスキーの名前はオランダ語読みで「ファン・ベンゴロ」となることから、

この件は

はんべんごろう事件

とも呼ばれています。

ちなみに、ベニョフスキーの祖国ポーランドは翌1772年、エカチェリーナ2世らによって「第1回ポーランド分割」を受けます。

江戸幕府中期の重要人物「田沼意次」についてはまた後ほど。

[728] 1792年、根室に来航したロシア使節は誰?

1791年に林子平が出版した「海国兵談」は、「不安を煽る」、「幕政批判」として老中、松平定信により発禁処分を受けました。

しかし、翌年、ロシア船が北海道にやってきます。

その代表者が、

ラクスマン(Laksman)
(当時26歳)

です。
(注:ラスクじゃないよ!laxで覚えて!)

ラクスマンは漂流した伊勢の船頭、大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)の引渡しとともに

通商

を求めてきました。

これに対して松平定信は

長崎以外では通商を行わないので長崎へ行くように

と長崎への入港許可証(信牌)を渡します。

ラクスマンは大黒屋を引き渡して帰国し、

その後、しばらく音沙汰はなかったのですが・・・

1804年、「レザノフ」来日。

1804年、長崎への入港許可証を携えたレザノフが来日しました。

この時、松平定信は既に失脚しております。

レザノフは新しい担当者と通商開始の交渉をするつもりでしたが、4ヶ月も待たせた挙句、幕府の答えは、

鎖国が祖法だからダメだよ~ん

でした。

これには、レザノフも激怒。

杉田玄白ら世界情勢を知る蘭学者たちも幕府を非難します。

そして、その代償は意外と早く訪れました。

当時、欧州ではナポレオン戦争の最中でしたから日本は侵略を免れました。

※(レザノフは、2年後に42歳の若さで逝去しますが、彼がもう少し長生きしていればカリフォルニアがロシア領となっていたかも知れない、と言われるほどの傑物でした・・・【wiki】)

幕末・明治維新を語る上でも重要な問題です。

[extra] 1806年、樺太・択捉島などが攻撃された事件は?

正解は、

フヴォストフ事件

です。文化時代に起きたので、「文化露寇」とも言われます。

1806年、レザノフの部下であるフヴォストフがレザノフの怒りを代弁するかのように樺太、択捉島などを攻撃しました。

なぜこの件が重要かと言いますと、

①ロシア兵が想像以上に強かった

②この件以降、外交問題が朝廷に相談されるようになった

からです。

こうして「はんべんごろう」の「日本侵攻説」は現実味を帯び、

急激に「朝廷」の存在がクローズアップされました・・・。

この続きは【コチラ】も。

フヴォストフに攻撃された人の中に間宮林蔵もいたんですよ。

[おまけ] 一路躍進(1689年)、「ネルチンスク条約」

さて、欧州の小国に過ぎなかったロシアは、いつの間に大英帝国のライバルまで成長したのでしょうか。

版図の広さを語る上で有名なのが、1689年に清と国境を定めた「ネルチンスク条約」です。

世界史では

一路躍進(1689年)、
ネルチンスク条約

と覚えます。

17世紀後半には既に満州付近まで進出していることを覚えておいて下さい。

そこからナポレオン戦争、クリミア戦争など数多の戦争を経て、さらなる強国にのし上がります。

レザノフのナジェージダ号。

wikipediaより free use

右の人物の横に書いているのは「手下之役人」?そうなると右の人物がフヴォストフ??

次は、【1828年、「シーボルト事件」と日蘭交流。

memory

[728] 1792年、根室に来航したロシア使節は誰?
→「ラクスマン