新編スタート:20日で仕上げる!

【1-4】 1828年、「シーボルト事件」と日蘭交流。

1828年、オランダ商館医であるシーボルトが帰国の際に、本来「持出禁止」である日本地図を持っていたという事件がありました。

これにより既に日本で名医としての名声を得ていたシーボルトは再入国禁止処分

地図を渡した幕府天文方の高橋景保(高橋至時の息子、伊能忠敬にも協力、異国船打払令を提言)らは処罰されました。

これが「シーボルト事件」です。

シーボルトとは・・・

  • 実はドイツ人(!)。
  • 1824年、長崎で「鳴滝塾」を開き、日本人医師(高野長英ら)を育てた。彼ら塾生に医学を教える代わりに日本に関するレポートを提出させた。
  • 1826年、江戸参府の際に多くの学者とも交流し、幕府天文方の高橋景保に世界地図との引き換えに日本地図を要求。これがのちの「シーボルト事件」につながる。
  • 1827年、日本人女性と結婚し、娘を授かった。この娘が後に産婦人科医となる楠本イネ。のちに、その教育係となったのは長州藩の大村益次郎・・・。
  • 1828年、国外へ日本地図を持ち出そうとして再入国禁止処分を受けた(シーボルト事件)。のち、1858年日蘭修好通商条約締結時に処分解除。
  • 1833年から、日本での研究をもとに、「日本動物誌」「日本植物誌」を刊行。
  • 1844年、オランダ国王に対して、日本へ開国を勧めるよう提言する。
  • 1861年、ロシア極東艦隊司令官リハチョフと会談。対日交渉についての相談を受ける。その直後には、幕府外交顧問に就任。

    などなど・・・

という、実にマルチな活動を行った人。

シーボルトは医者として極めて優秀であったので覆われがちですが、

しきりに門下生に日本のレポートを書かせたり日本地図を欲しがったりしているところを見ると、

やっぱりスパイ」(?)

と言うべきなんでしょうかね。

(※「内情探索官」と渡辺崋山には答えている。)

一方、「シーボルト事件」に関しては、

薩摩藩主・島津重豪への牽制が狙いでは?

という説もあります。

↓こちらの方のまとめが秀逸。↓

http://kan5.sakura.ne.jp/gosan/kouwa/2017/2017_05/siebold.pdf

謎の部分も多いため、今後の研究が待たれるところです。

とりあえず、ここでは「シーボルト事件」の顛末と「鳴滝塾」を覚えておいて下さい。

[739] ドイツ人医師のシーボルトが、長崎に開いた医学塾は?

正解は、「鳴滝塾」。

オランダ商館医でありながら、実は「ドイツ人」っていうのが面白いよね。

実は、このシーボルト事件、高橋景保の部下が日頃のパワハラ(?)に怒り密告したものであるという説も!そして、その部下の名前こそ、「間宮林蔵」!!【コチラも

「蘭学事始」

さて、シーボルトのような例は少なく、多くの日本人はオランダ語で書かれた書物をもとに洋学の勉強をしました。

そのうちの1人が杉田玄白です。

「解体新書」を書いた人、と言った方が分かりやすいでしょうか。

[737] 医学書(ターヘル=アナトミア)を訳し、『解体新書』を書いた人物を2人述べよ。

正解は、
前野良沢(1723~1803)」
杉田玄白(1733~1817)」。

前野良沢の方がより学究的。翻訳が完全ではないことに「解体新書」の出版に反対したほど。

※実は「ターヘル=アナトミア」とは俗称で、正式には「Anatomische Tabellen(独)」、「Ontleedkundige tafelen(蘭)」です。
「解体新書」はこの書に加え、複数の書籍から再構成されました。

「解体新書」は、西洋で使われている「人体解剖図譜」を日本語で書いたものですが、杉田玄白はオランダ語を日本語に変換する苦労を「蘭学事始」(らんがくことはじめ)で著しています。

また、この2人の師匠から名前をもらった大槻玄沢(1757~1827)は、蘭学の入門書である「蘭学階梯」(らんがく かいてい)を、

その門人の稲村三伯(1758~1811)は蘭日辞書である「ハルマ和解」(はるまわげ)を作りました。

蘭学の苦労→「蘭学事始」(杉田玄白)
蘭学入門書→「蘭学階梯」(大槻玄沢)
蘭日辞書 →「ハルマ和解」(稲村三伯)

ちなみに、杉田玄白は幕府がレザノフに行った対応(1804年)を批判もしています。

医学を通じて西洋の方が進んでいることを知っていたから問題視したのでしょうね。
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感想(0件)
↑この巻は特にオススメ。池大雅と与謝蕪村のダブル主人公の章とか渋すぎる。

徳川吉宗時代に、「洋書輸入」が緩和されたこと、蘭学者への一部の儒学者による嫉妬が後に「蛮社の獄」を生んだことも覚えておいて下さい。

250年間世話になったオランダへ発砲!

ところが、世話になったオランダへ発砲する、という事件がありました。

1863年の事件です。

なぜこんなことになったのかと言いますと、

幕府(徳川家茂)が攘夷決行を宣言した

からです。

家茂が和宮(孝明天皇の妹)を妻にもらう時の条件が「10年以内の攘夷決行」だったんよね。

そして、何で、幕府が無謀とも言える宣言をしたのかと言いますと、

当時、多くの暗殺事件を背景に、

急進的な攘夷派公卿(三条実美ら)と、攘夷を藩論とした長州藩が結びついて朝廷を牛耳っていた

からです。

家持は軟禁状態に近い形で、攘夷決行を「言わされた」のです。

この軟禁状態から家茂を救い出そうとする小笠原長行の「卒兵入京」が実現していればどうなったかね。
「フヴォストフ事件」で急に脚光を浴びたけど、当時の朝廷なんて、世間知らずの頑固者よ。

いずれにしても、この発砲事件によって、オランダは日本との国交に見切りをつけました。

のちの昭和16年(1941年)、日本と米英どちらを選ぶか迫られたオランダが「対日石油輸出禁止」を決定したのは、これが遠因でしょうか・・・

そして、この約3ヵ月後、あまりに急進的すぎる長州藩と三条実美ら公卿が京都からを追い出された事件が、

八月十八日の政変」(1863年)

です。

追い出したのは、主に、「薩摩藩」、「会津藩」、「孝明天皇」です。

孝明天皇自身も「攘夷」なのですが、長州藩や自分を利用する三条実美らに不快感を示しました

長州藩は、そんな孝明天皇を連れ去ろうとしてさらに一悶着を起こすのですが、その話はまたのちほど。

次は、【1837年、「モリソン号事件」と新興国アメリカ。

memory

[737] 医学書(ターヘル=アナトミア)を訳し、『解体新書』を書いた人物を2人述べよ。

→「杉田玄白、前野良沢

[739] ドイツ人シーボルトが、長崎に開いた医学塾は?

→「鳴滝塾

im_souffle さんによる写真ACからの写真 「アムステルダム」

コチラも。