新編スタート:20日で仕上げる!

【2-1】 1785年、田沼意次と「ロシア対策」。

【第1日】では迫り来る西洋の脅威を中心に書きましたが、【第2日】ではそれらに対する国内での対策について書きたいと思います。

まず、数十年前は「わいろ政治家」と悪評が高かった「田沼意次」。

近年では、

明治維新を内側から100年前にやろうとした男

と評価を上げています。

by wikipedia
松平定信への政権交代でロシア対策が鈍っちまったのが残念だな~。

1783年、工藤平助の「赤蝦夷風説考」

この時代、工藤平助という医者が「赤蝦夷風説考」を出版いたしました【コチラも】。

1783年のことです。「悩み(783)ながら」書いた、と覚えました。)

この書では「北方防備」に加えて、

「蝦夷地開発」と「ロシアとの交易」が日本に富をもたらす

という内容が書かれていました。

田沼意次が本書を目にしたのは、1784年の7月。

この2ヶ月前に息子の息知が暗殺されており、失意のどん底にいましたが、この計画の可能性を調査してみることにしました。

最初に派遣されたのは誰でしょう?

1785年、最上徳内の蝦夷調査。

問題です。

[721] 田沼意次が、蝦夷地に派遣したのは誰?

正解は、「最上徳内」(1755~1836)。

最初の調査団の中に「最上徳内」がいました。

by wikipedia

後世に名を残す人物ですが、当時31歳。

しかも、農家の出身ながら学問で身を起こすと決意し、27歳で山形県から上京したばかりです。

問題文からは語弊を生むかも知れませんが、師匠である経世家(政治評論家)の本田利明(後述:1743~1821)が病気で辞退したための代役で、田沼意次から直接、蝦夷調査隊に命じられたわけではありませんでした。

それも、下っ端の「人夫」です。

しかし、ここでの大活躍によって、翌年以降は単独調査が認められ、さらに後には幕府から正式に依頼を受けるまでになります。

1786年、田沼意次失脚で時代が反転。

ところが、1786年、田沼意次は失脚し、蝦夷開発も中止となりました。

10代将軍、徳川家治が亡くなったのもこの年です。

田沼の失脚理由は1つではありませんが、「天明の大飢饉」(1782~1787、1783年には浅間山噴火)も要因の1つです。

この時、白河藩の被害を最小限に食い止めた松平定信(当時27歳)の評価が高まりました。

松平定信政権は「飢饉が生んだ政権」。

松平定信はとにかく田沼政治を否定しました。

北方探索をライフワークにしようと考えていた徳内にも暗雲が漂いますが、彼の凄いところは不屈の精神で、その後を切り開いたところです。

その話はまた後で・・・。

ちょこっと時代整理。

田沼時代
(1772~1786)
工藤平助「赤蝦夷風説考」(1783)
最上徳内が第1回北方調査に参加(1785)
定信時代
(1787~1793)
林子平「海国兵談」(1787)⇒没収
ラクスマン根室来航(1792)
寛政の遺老時代
(1793~1817)
近藤重蔵・最上徳内により択捉島探検、択捉島に「大日本恵登呂府」の標識を立てる。(1798)
レザノフ来航(1804)
フヴォストフ事件(1806)
間宮林蔵、間宮海峡発見(1809)
田沼さんは話を1度は聞いてみる度量があったけど、定信はいきなり弾圧だもんなぁ。

それで、実際にラクスマン来て、慌てふためいて。

わしの時代は平賀源内のような面白い人物が育った。

世間に「わいろ政治家」って言われても、弾圧なんかせんよ。

北方に関しては、当時のロシアにあんまり欲しいものないので、結局、貿易はせんかったけど、田沼路線が継続していたらどうなったか知りたいところじゃ。

おまけ:本田利明

さて、最上徳内の師匠である本田利明(1743~1821)ですが、その後、1798年、開国による富国策を説き、「西域物語」(せいいきものがたり)を著します。

この人、「幕藩体制を超えて国家として行動すべき」とかという点は田沼のやろうとしたことでもあり、良いんですが、

植民地を獲得せよ

漢字はやめてアルファベットにせよ

など、なかなか過激な意見も。

さらには、ロンドンと同じ緯度にすれば日本も栄えるとの理由から、

カムチャッカ半島に遷都せよ

という意見も。

ただ、もしホントにカムチャッカ半島が首都になったら、だいぶ今とは違った国になっていましたね。

カムチャッカ半島に行ったことのない学者の意見を採用するほど幕府もバカではなかった。

ちなみに、「経世秘策」という書も著している。

ただ、もし今のカムチャッカ半島が東京くらい栄えていたとしたらどうですかな?

と、北海道好きの私としては師匠の考えに賛成ですぞ?

うん。だいぶ面白いけど、ないでしょ。

[744] 開国による富国策を説き、『西域物語』を書いたのは誰?

正解は、「本田利明」(1743~1821)

1798年の作品ですな。

ちょうど私が近藤殿と一緒に択捉島に旗を立てた年でもあります。

おまけ

[722] 1798年、択捉島に「大日本恵登呂府」の標識を立てたのは誰?

正解は、「近藤重蔵」。
(「最上徳内」でも可と思われる。)

その後は【コチラ】も

memory

[721] 田沼意次が、蝦夷地に派遣したのは誰?

⇒最上徳内

[722] 1798年、択捉島に「大日本恵登呂府」の標識を立てたのは誰?

⇒近藤重蔵(あるいは最上徳内)

[744] 開国による富国策を説き、『西域物語』を書いたのは誰?

⇒本田利明


本項の略年表

1783工藤平助、「赤蝦夷風説考」
1784田沼意知、暗殺される
1785田沼意次、蝦夷に調査団を送る(最上徳内もその1人)
1786田沼意次、失脚。蝦夷探索も停止。
1798本田利明、「西域物語」
最上徳内、近藤重蔵とともに択捉島に「大日本恵登呂府」の旗を立てる

続いては薩摩藩、調所広郷の財政改革