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【2-2】 1814年、調所広郷と薩摩藩「借金問題」。

続いて薩摩藩です。

「薩長土肥」という呼び名から薩摩と他の3藩が並列しているような印象を受けますが、薩摩藩なくして倒幕は起きていなかったでしょう。

長州藩もその過激さで重要な役割を果たしましたが、薩摩藩が長州藩を助けたからこそ倒幕が可能だったと思います。

しかし、薩摩藩以上の石高を持つ藩は多くあったのに、なぜ薩摩藩が幕末のイニシアチブをとることができたのでしょうか。

ここでは、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通ら以前の功労者として、「調所広郷」(ずしょひろさと)を挙げたいと思います。

[729] 薩摩藩の藩政改革を行ったのは誰?

正解は、「調所広郷」(1776~1849)

1776年はどんな年?

調所広郷の生まれは1776年。

当時、江戸では10代将軍徳川家治のもとで田沼意次がさまざまな改革を行っていた時代です。

また蘭学が盛んな時代でもあり、この2年前には前野良沢・杉田玄白が「解体新書」を出版しております。

そして、田沼意次が蘭学を支援していたように、当時の薩摩藩主・島津重豪(1745~1833)も蘭学にのめり込んでおりました。

「蘭癖大名」・島津重豪

ただ、重豪が蘭学にのめり込みようは尋常ではなく、蘭学に予算をつぎ込むあまりに薩摩藩の借金が膨らみました。

重豪から藩主の座を継いだ息子の斉宣は藩政改革を試みましたが、、、

重豪
「わしに指図する気か!」
斉宣
「でも父ちゃん、屋敷が燃えても誰も金を貸してくれないんだよ・・・」(※1)
重豪
「蘭学のせいじゃないっ!薩摩は参勤交代費用がかかるんじゃっ!(※2)それに、それに、宝暦治水事件(※3)でもお金かかったし、娘の子が将軍になったので出費も増えたし・・・。だから、蘭学は続けるぞーっ」
斉宣
「この蘭癖が・・・」

結局、斉宣ら改革派(※4)は潰され、1809年、藩主の座は重豪の孫、斉興に継がれることとなりました。

(※1)1806年に屋敷が燃えたが、1802年に重豪が商人への借金の金利を勝手に引き下げたために、誰もお金を貸してくれなかった。結局、高利貸しに頼ることになり、再び借金累積の道を歩む。

(※2)というか、もう参勤交代すらできないくらいに借金が膨らんでおり、「参勤交代を15年間凍結させてもらおう」というアイデアも出た。実際に斉宣は重病を装い参勤交代をトンズラしようとしていたが、将軍岳父となった重豪が許さなかった。

(※3)1754年、幕命により薩摩藩が木曽三川の治水工事を請け負わされるも工事は難航。病死、自害するものも多数。工事終了後に責任者の平田靱負も自害した。この工事には40万両(現在の300億円)程度が費やされた

単に「宝暦事件」といえば、1758年の「竹内式部事件」を指す。

(※4)斉宣が任命した改革派たちは「近思録」という朱子学を勉強していたことから、この事件は「近思録崩れ」とも言われております。

「経済評論家」・佐藤信淵

重豪は頭では財政改革をしなくてはいけないと思ってはいたものの、なかなか実行に移せません。

そこへ、「佐藤信淵(さとう・のぶひろ)」(※5)という自称・経世家(今で言うところの経済評論家)がやってきて、アドバイスをします。

さとうのぶひろ
借金、踏み倒しちゃいなよ
重豪
え?いいの?いいの?

この献策に重豪が乗ってしまうのですが、当然、商人たちからは総スカン。誰もお金を貸してくれない状況となり、かえって高利貸に手をつけることとなり、さらに借金が累積していく有様に・・・

1813年に126万両あった借金は、1834年には500万両の借金となっていました・・・

斉宣
だから言っただろっって!!

(※5)1769~1850。薩摩藩へは、1787年、1805年に訪れる。当時、多くの著作を記していたものの、生活には困窮していた模様。1814年~1816年にかけて方策を薩摩藩家臣に送っている。(結果オーライかも知れないけど、なんちゅう経済評論家だ・・・)

著書としては世界征服まで推進した「宇内混同秘策」の他、「経済要録」、「農政本論」などが有名。

調所広郷の藩政改革

調所広郷は重豪に目をかけられ1814年には重役に、1824年には参勤交代費用の工面をする仕事や密貿易にも従事しております。

1827年くらいから財政改革の中心を担い、1838年には江戸城西ノ丸火災の普請調達のために贋(ニセ)金作りにも着手しております。

1835年の「借金踏み倒し」事件(※6)が有名ですが、これに加えて、「密貿易」と「砂糖の専売制」(※7)が、大きな方針でしょうか。

重豪の命を受けた調所広郷の奮闘もあり、薩摩藩は1840年には250万両の貯蓄を有する雄藩へと様変わりします。

調所広郷:wikipediaより引用

同時期、幕府は「モリソン号事件(1837年)」、「大塩平八郎の乱(1837年)」に加え、「天保の改革(1837年~1843年)がことごとく失敗」などで混乱していたのとは裏腹ですね。

調所広郷が稼いだ資金をもとに薩摩藩は軍制改革にも取り組むことができました。

(※6)1835年に、大坂の銀主たちに、「本日を持ちまして借金は無利子となり、250年払いとしまーす(意訳)」と宣言。

ただし、協力してくれた商人には仕事を優遇し、ちゃんと借金も返済していた。返済していたのは明治の初めまでの35年間だけだけど。(そうでなければ、いまだに返済期間中。)

(※7)奄美大島、喜界島、徳之島では稲作をさせずに砂糖だけ作らせてそれを搾取し、米は普通の6倍以上の値段で売りつけた。いわば薩摩藩の繁栄は奄美三島の人々の苦しみの上に成り立ったものであり、「敬天愛人」とのたまわった西郷隆盛もこの植民地経営を踏襲していた。

ちなみに、奄美三島の人々に対しては砂糖を「舐めた」だけで鞭打ちの刑。

1848年、調所広郷の死!

ところが、1848年。調所広郷は幕府から密貿易の罪を問われます。

これには伏線があって、なんとこの密貿易を幕府にタレ込んだのが、次の藩主となった島津斉彬と言われております。

なぜそこまでして斉彬が調所を追い込んだのかと言うと、調所は次期藩主に斉彬弟の久光を推していたからです。

幕府からの糾弾に対して調所は藩主・斉興に罪が及ばないよう「服毒自殺」したと言われておりますが、斉彬による「暗殺説」も唱えられているのです。

その3年後、斉彬は藩主となり、彼のもとで西郷隆盛らが登用されますが、調所による財政改革、そして奄美三島の人々の苦しみがあってこそ、彼らが活躍できたことは忘れないで欲しいですね。

調所広郷
長州(萩)藩の村田清風殿も有名らしいが、借金は薩摩藩の方が1桁多かったんじゃからな。

まあ、あんまり自慢することではないか・・・

【主な参考文献】「薩摩藩の財政改革と調所広郷」(大矢野栄次先生、2018年、久留米大学 経済社会研究)

[745] 産業の国営化を説き、『農政本論』や『経済要録』を書いたのは誰?

正解は、「佐藤信淵」(さとうのぶひろ)。

さとうのぶひろ
借金踏み倒し論(宛薩摩藩)や、世界征服論(宇内混同秘策)は忌み嫌われているかも知れないが、わしは、ただのカルトじゃないんじゃぞ。

ちなみに『経済要録』は1827年に書いたが、出版されたのは1859年。「富国強兵」、という点では本田利明殿の経世秘策(1798)と一緒じゃな。

[729] 薩摩藩の財政改革を行ったのは誰?

→「調所広郷」

[745] 産業の国営化を説き、『農政本論』や『経済要録』を書いたのは誰?

→「佐藤信淵」

本項の略年表

1745島津重豪出生
1754宝暦治水事件
1776調所広郷出生
1787佐藤信淵、薩摩藩を訪れる
1798調所広郷、島津重豪に登用(茶坊主@江戸藩邸)
1802島津重豪、借金の利息を勝手に下げることで商人から反発
1806薩摩藩邸が火災に遭うも商人から借金できず高利貸利用
1809近思録崩れ
1813薩摩藩、この時点で126万両の借金
1814佐藤信淵、薩摩藩へ献策
調所広郷は重役に昇進
1823佐藤信淵、「宇内混同秘策」
1824調所広郷、参勤交代費用工面
1827調所広郷、財政改革の中心に
佐藤信淵、「経済要録」(→死後の1859年出版)
1833島津重豪死去(89歳)
1834薩摩藩、この時点で500万両の借金
1835調所広郷、「借金の利息ゼロ、250年払い」を宣言
1838調所広郷、贋金作り
1840薩摩藩、この時点で250万両の貯蓄
(※上記借金踏み倒し、贋金作りに加えて、奄美三島を植民地化しての「砂糖の専売制」と「密貿易」が主な収入源)
1848密貿易の罪を問われ、調所広郷死去(服毒自殺?暗殺?73歳。)
1850佐藤信淵死去。82歳。

【追記】『偽金づくりと明治維新』(2010年、徳永和喜、新人物往来社)

薩摩藩が黒字に転じたのは琉球貿易でもなく、砂糖の専売制でもなく、何よりも「偽金づくり」??

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