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【2-3】 1830年、鍋島直正と佐賀藩の「軍制改革」。

つづいて、佐賀藩。

鍋島直正」という1人の英主により、稀に見る近代化を果たしました。

[730] 佐賀藩の藩政改革を行ったのは誰?

正解は、「鍋島直正」。

直正
私、「鍋島閑叟」(なべしまかんそう)とも言います。「斉正」時代もありましたが、「直正」が一番書きやすいでしょうか。

佐賀=肥前?

佐賀藩は「肥前藩」とも書かれますが、「肥前国」≠「肥前藩」です。

「肥前国」=「佐賀県+長崎県」に対して、「肥前藩」=「佐賀県の3/4くらい+

長崎ちょっと」

(唐津市、鳥栖市などは除き、長崎県の一部がちょこっと入る)

紛らわしいですね。

佐賀県の中には、佐賀藩唐津藩(=現・唐津市付近)、対馬藩の飛び地(=現・鳥栖市付近)がありました。

「肥前藩」は「肥前国」ではないので注意が必要ってことね。

1808年の「フェートン号事件」。その時、佐賀藩は?

1808年、「フェートン号事件」が起きます。

これは、イギリス船が「オランダ船」を偽って出島に侵入、オランダ人を捕虜にした事件です。【コチラ

筑前藩と佐賀藩は1年交代で長崎警備を担当しておりましたが、この年は、佐賀藩の担当でした。

しかし、直正の父、斉直(当時27歳)は経費削減のため、勝手に警備兵を1/10に減らしていました。

長崎奉行が自前の兵を持っていないというシステムも問題なのですが、これにより長崎奉行はイギリス船の言うなりに水や食糧を提供。

日本に損害はなかったものの、長崎奉行松平康英は国威を傷つけたとして切腹しました。

直正パパ
でも戦争にならんで良かったんじゃないの?へへへ。
幕府
お前は100日間自宅謹慎じゃーっ!

1814年、直正出生。

直正の父・斉直は浪費癖もあるうえに、46人の子供をもうける艶福家で、藩の財政は火の車でした。

55人の子供をもうけた11代将軍家斉とも通じるものがありますね。

実際に、年齢も家斉の7歳下で、同世代人です。

直正パパ
将軍様にならえじゃよ。ワーハッハ。

そのような藩主の子として生まれた直正でしたが、昌平坂学問所で教鞭をとった「寛政の三博士」の1人、古賀精里の息子、古賀穀堂に、厳しく育てられました。

古賀穀堂
若、じいは甘くせんぞ!

1830年、直正、藩主となる。しかし・・・。

1830年、藩の借金が増えすぎて斉直は隠居することになり、直正(16歳)が藩主となります。

しかし、江戸藩邸から佐賀に帰る途中で借金取りが道をふさぐ、というマンガのような展開に!

泣くほどショックを受けた直正は、以後、財政改革に取り組みます。

古賀穀堂
若、私の書いた「済急封事」(1831)をよく読むのですぞ!

あと、「葉隠」なんて読んだらあかんでずぞ!

直正
先生、ありがとうございます。

役人を1/5にするだけでなく、自らも倹約し、さらに歳入を増やす努力もします。

新田開発のほか、蝋・陶磁器・石炭などの特産品を育成します。

でも、一番好きなのは蘭学です。長崎のオランダ商船にも乗せてもらいました。

[648] 肥前有田で作られた陶磁器は?

正解は、「有田焼」。
(「伊万里焼」でもOKと思われる。)

 ヤマモリポテコ さんAC無料イラストより

有田焼
寛永年間に酒井田柿右衛門が中国から赤絵の技法を学び、独自の上絵付に方法を完成した。

1839年には贅沢を続けていた父・斉直が死去しましたが、この頃には日本でも有数の黒字藩へと変貌しております。

あれ、wikipediaには「借金の8割を放棄し、2割を50年払い」ってことが書いてあるけど、これって、借金の踏み倒しですよね?
直正
てへ。

鍋島直正の軍制改革

直正の真骨頂といえば「軍制改革」でしょう。

直正も薩摩藩・島津重豪と同様に「蘭癖大名」と呼ばれておりましたが、

1832年から優秀な藩士に砲術を学ばせ、1844年には鉄製大砲鋳造開始。

1849年には日本初の製鉄所も作っております。

調所広郷
同じ「蘭癖」と言われているが、こちらの殿様の方が賢そうじゃ。

また、アヘン戦争(1840~42)の結果を受けて長崎湾岸の防備増強を幕府に訴えましたが、反応が鈍かったため、佐賀藩領の島々に砲台を設置することで長崎防備を実現しました。

これがペリー来航の3年前です。

直正
長崎の中には入れさせない。外海に浮かぶ島々に設置した砲台で侵入を防ぐのじゃ。

おかげで長崎防備を目にしたプチャーチンは穏便な外交を行うことと決めたし。

[759] 1853年に長崎に来航し、開国を求めたロシア人は誰?

正解は、「プチャーチン」。

プチャーチン
「日本人が一番好きなロシア人」とも呼ばれたヨ。

鍋島さんの防備、スゴイデスネー。

佐賀藩の砲台を作る技術は幕府や諸藩からも羨望の的となり、砲台の輸出も行われました。

直正
品川にある幕府の砲台、あれ、ウチの。

あと、薩長の奴らにも送ってるんよ。

ん?どっちの味方かって?

1849年、牛痘ワクチンを自前で輸入

直正の先見性は、「牛痘ワクチン自前輸入」からも読み取れます。

牛痘ワクチンを人間に用いると、牛痘による症状は軽いのに、近縁疾患である「天然痘」にかからなくなります。

天然痘、って藤原四兄弟が全滅したヤツね。

共に長崎警備を行った筑前藩と一緒に購入しましたが、こうした知識は、長崎防備を行うことで得られたものです。

牛痘法は1796年のジェンナーが端緒。

その後、何度か日本へも伝わったけど、日本に到着する頃にはワクチンの効果がなくなっていたり、藩主がその良さに気づかなかったりで広まらなかった。

1790年に、秋月藩医・緒方春朔が人の痘種を行っているのは画期だが、この方法はリスクもある。

東では佐倉藩主・堀田正睦が1849年以降、領民たちに無料で種痘を施した。堀田正睦は老中首座としての失敗がクローズアップされてしまうが、藩主としては極めて有能。「西の長崎、東の佐倉」と言われる。

戊辰戦争、どちらに付く?

佐賀藩は鳥羽伏見の戦の時点ではどちら側につくか決めておりませんでした。

しかし、その後、新政府軍に合流。

上野戦争や会津戦争(1868年)では自慢のアームストロング砲、七連発スペンサー騎兵銃などが火を噴きました。

近代化された軍備と、長崎防備を通じて官僚機構を理解していた佐賀藩が新政府軍に味方したことで幕末の趨勢が決まったのではないか、とも言われております。

直正
あとは江藤新平君やら大隈重信君やら、有能な人材を育てたことも誇りかな。

ま、「佐賀七賢人」でググってみなされ。

この項の関連年表

1808フェートン号事件
1814鍋島直正出生
1830直正、藩主となる。
同時に藩に多額の借金があることを知る。
1831古賀穀堂「済急封事」献策。
藩政改革。
1832優秀な藩士に高島砲術を学ばせる。
西洋の技術も積極的に導入。
1849日本初の製鉄所完成。
牛痘ワクチンを自前で輸入。
1850長崎防備完成。
1853長崎防備にプチャーチン、驚く。
1868新政府軍に付き、戊辰戦争を戦う。
1871鍋島直正死去。
1874江藤新平、「佐賀の乱」。

memory

[730] 佐賀藩の藩政改革を行ったのは誰?

→鍋島直正

[648] 肥前有田で作られた陶磁器は?

→有田焼(伊万里焼)

[759] 1853年に長崎に来航し、開国を求めたロシア人は?

→プチャーチン

鍋島直正@wikipedia