さて、続いては幕府。
やはり重要なロシア問題、北海道に焦点をあてます。
1785年、田沼意次は最上徳内らを北方探査に派遣しますが【コチラ】、次の松平定信はこの路線を潰しました。

1789年、クナシリ・メナシの蜂起
しかし、この間、北海道では「クナシリ・メナシ(国後・目梨)の蜂起」が起こります。
【クナシリ・メナシの蜂起】
場所 | 東蝦夷地 |
原因 | アイヌの経済的困窮など |
背景 | ロシア人の南下 和人商人(場所請負人)の進出 |
結果 | 松前藩により鎮圧 |
その後 | 3年後(1792)にラクスマン、根室に来航 10年後(1799)に東蝦夷地が幕府直轄領となる |
同時期 | フランス革命(フランス) 棄捐令発布(日本) |
鑑別 | コシャマインの戦い(1457年。アイヌに勝ち松前藩が成立) シャクシャインの戦い(1669年。松前藩がアイヌを鎮圧) |
当時の北海道は、松前、東蝦夷、西蝦夷、樺太に分けられ、ロシア人は既に東蝦夷地まで南下していました。
ロシア人はアイヌを足掛かりにして北海道侵略を企んでいました。
一方で和人商人から不利な条件で交易させられて経済面で圧迫されていたアイヌが和人を襲撃したのが「クナシリ・メナシの蜂起」です。
(直接的には幹部が毒殺されたと勘違い)
【蝦夷地】

1793年、松平信明が老中首座となる。
松平定信が1787年から1793年までの6年間であるのに対し、松平信明は1793年から1817年までの26年間のうち23年間も老中首座を務めました。



【寛政の遺老時代の北海道政策】
1796 | 英国人探検家ブロートンが室蘭(東蝦夷地)に来航し測量を行う。 |
1798 | 近藤重蔵、最上徳内、千島列島探査。 択捉島に「大日本恵登呂府」の標識を立てる。 |
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする。 |
1802 | 箱館奉行を設置。 ※初代:羽太正養 |
1803 | 松平信明、権力集中を家斉に恐れられたため辞職に。 |
1806 | フヴォストフ事件がおき、ロシア軍艦が樺太や択捉島を攻撃。択捉島守備兵敗走。 松平信明、老中首座に復帰。 |
1807 | 松前、蝦夷地をすべて直轄して松前奉行を設置。 ※松前藩は移封。初代奉行は羽太正養ら。 |

松前藩に任せておいては頼りにならないので、東蝦夷地直轄化からの、北海道全域直轄化。
結構、重要な役割を果たしたと思うのだが、私の名前が「のぶあき」ではなく、「のぶあきら」であることを知っている人はほとんどいない。

1808年、間宮林蔵、樺太探査。

ロシアとの関係が緊迫化する最中、幕命を受けて間宮林蔵が樺太探査しました。
実は間宮林蔵、択捉島に赴任していた時期があり、その際にフヴォストフの攻撃を受けております。
1808年、1809年と2回に分けて探査を行い、樺太が島であることを「発見」しました。
さらには対岸の沿海州(当時は清領)に渡り、黒竜江(アムール川)まで渡っております。
こんな国境紛争地域まで単身(アイヌの従者を雇ってとはいえ)で、踏みこめるとは、間宮林蔵、ただの御庭番ではない・・・と感心します。
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[723] 1808年、樺太が島であることを発見したのは誰?
→正解は、「間宮林蔵」。(1780~1844)
そして、彼の先輩であり、師匠に当たるのが伊能忠敬。
[738] 『大日本沿海輿地全図』を作成した地理学者は?
→正解は、「伊能忠敬」。(1745~1818)
※結局地図が完成したのは伊能忠敬死後の1821年。北海道部分は間宮林蔵が作成した、というのが近年の見解。
1811年、ゴローニン事件。
とはいえ、ロシアの南下問題が解決したわけではありません。
幕府は北方防備を強化した折に、ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンを拿捕します。
1812年、豪商・高田屋嘉兵衛が拿捕。
ゴローニンを取り戻したい副艦長のリコルドは国後島で商船を拿捕。
しかし、この船長は全く動じることがありません。
それどころか、むしろ自分から進んでロシアへ行って日露平和を実現しようと考えているような節もありました。
この男が、高田屋嘉兵衛。
当時、北海道での商いに加え、防備兵たちを輸送することまで担当していた豪商です。

1813年、ゴローニン事件、解決!!
フヴォストフ事件以降、日露関係は一触即発の状態でしたが、高田屋嘉兵衛は何とか日露平和を願いました。
言葉は通じないものの、その熱意により高田屋嘉兵衛とリコルドの間には友情が芽生えます。
そして、フヴォストフ事件は「一軍人がやったこと」とロシアが公式発表することで、日露関係は改善し、高田屋嘉兵衛は日本へ、ゴローニンはロシアへと戻ります。


※1812年、ナポレオンのロシア遠征。
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1817年、松平信明死去!後任は・・・
こうして日露関係はいったん改善。
1817年、松平信明は55歳で死去し、後任には水野忠成が就きます。
【幕末に登場する3人の水野】
水野忠成(ただあきら) | 1763~1834 | 松平定明死去後、老中首座に就任。徳川家斉の散財MAXに。品位を落とした文政小判を出して利益を得るも、インフレ誘導に。評価D。(ただ、景気を刺激し、庶民文化が花開いたとして評価を上げる見方もされている。) |
水野忠邦 (ただくに) | 1794~1851 | 賄賂による三方領地替えが悪名高い。のちに老中首座に上り詰め、家斉死後の1841年から「天保の改革」を行うも、既に幕府の権力は地に落ちていた。江戸・大坂の「上知令」も反対に遭い失敗。評価D。 |
水野忠徳(ただのり) | 1810~1868 | 交渉の席などでは屏風の裏から上司に献策していたことから「屏風水野」とも呼ばれる。外国為替問題でも小判流出を防ぎ、どさくさにまぎれて小笠原諸島も領有に成功するなど下り坂の幕府にあって活躍。評価A。 |

でも教科書に出るのは前の2人・・・(涙)
1821年、松前藩に蝦夷地返還。
北海道警備は東北諸藩にとって重い負担であるとともに、松前藩は蝦夷地奪回を目指して水野忠成に賄賂を贈っていました。
その効果もあってか、1821年、蝦夷地は松前藩の元に戻ります。

【1808年以降の北海道政策】
1808 | 間宮林蔵、樺太探査。 |
1811 | ゴローニン事件。ロシア船艦長拿捕。 |
1812 | 豪商・高田屋嘉兵衛、ロシアに拿捕される。 ナポレオンのロシア遠征。 |
1813 | 高田屋嘉兵衛の尽力もあり、ゴローニン事件解決。 |
1817 | 松平信明死去、水野忠成が後任。 |
1821 | 松前藩に蝦夷地返還。 |
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間宮林蔵は、ゴローニンににも会っていた、ということが記されております。【コチラ】